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国宝 釈迦如来倚象

平成29年3月 国宝 指定

平成29年3月10日、国の文化審議会が文部科学大臣の諮問に対し、深大寺 銅造 釈迦如来倚像(飛鳥時代)を国宝に指定することを答申しました。

深大寺釈迦如来倚像は博物館や美術館を除いて、関東の寺院所蔵の国宝仏では、鎌倉大仏に次ぐ二例目、制作年数は鎌倉大仏より約500年古く、東日本最古の国宝仏となります。

深大寺開創の天保5年(733)より前に文化の中心であった畿内地域において、作られたと考えられます。白鳳時代(飛鳥後期645-710)同時期の傑作である奈良県新薬師寺薬師如来立像(香薬師)、奈良県法隆寺観音菩薩立像(夢違観音)と深大寺釈迦如来倚像は銅の成分が極めて近似するなど共通する部分が多く認められ、同一の工房又は同系統の工人によって作られたと考えられます。

清純な微笑を浮かべた明るい童顔、端正な符坐の姿をめぐる流麗な衣文によって親しまれている深大寺の釈迦如来像(白鳳仏)は、全高83.9p、坐高59.3pと大型の金銅仏で、国宝に指定されています。

この像は明治四十二年(1909)、柴田常恵氏により当寺元三大師堂の壇下から見出されて注目を浴ぴるようになったものです。これより少し前、明治三十一年(1898)の『深大寺明細帳』に二尺八寸の釈迦如来銅像を挙げて「坐像に非ず、立像に非ず」と注記してあるのがこの像を指すと思われ、いにしえ古法相宗であった時の本尊と伝えています。天保十二年(1841)の当寺『分限帳』にもこれとおぼしい本堂安置の銅仏の記載があります。慶応元年(1865)の火災後、本堂の再建を見ないまま、慶応三年(1867)建立の大師堂に置かれていたようです。しかしこれより依然の伝来は不明で、当寺に関する古い記録や縁起でも触れられておらず、この像の伝来や当寺との関係は今だなぞに謎に包まれていますが、像の創造時期が深大寺開創の直前だったと考えると開創当時の本尊であったとするのが順道と考えられます。

鋳造法は、古代の他の金銅仏と同様、蝋型によるもので、土の中型(なかご)に密蝋を着せて像の外形を作り、これを土の外型で包み、密蝋の部分に溶銅を流し込んだものです。像内は像底から頭部内まで空洞で、銅厚はほぼ一pです。

釈迦如来倚象(白鳳仏)@

表面は火中して肌が荒れて、鍍金(ときん)は一部にわずか残っています。この像に見る童顔は、朝鮮新羅から中国の斉、周、隔代の仏像に源流が辿られます。肉身に微妙な抑揚を表し、薄い衣に流麗な衣文を刻むのは、インド・グプタ彫刻の影響をとり入れた中国唐代彫刻に連なるとも見られていますが、童顔の清純さと端正な整いとの混ざり合った造形には、すでに私たち日本人の好みが反映しているのでしょう。

七世紀末の制作と考えられ、関東の白鳳仏として千葉県篭角寺の薬師如来像とともに著名ですが、いま行方の知れない奈良新薬師寺の香薬師とその表現が極めて似ていること、下瞼の上縁に沿ってくっきりと一線を刻した特徴的な手法もよく似ていることは、その制作地の謎を考える上で注目すべきことでしょう。

また、この象は都内最古の仏像で国宝に指定されており、類稀なことから様々な仏像展にも出品されています。

現在は釈迦堂に安置されています。